1995.05.01

「涙のペットボトル」朝日ソノラマ刊1995年5月掲載

年賀状をまだ片付けもしないまま立春が過ぎ、いつの間にか春を待つに遠くない頃となりました。一生のうちでおそらく一番長い三週間が過ぎようとしています。今日の当直室はとっても静かです。

いつもより次々と患者さんのあった一月十六日の二次救急当直の夜でした。もうそろそろ休めるかなと思いながら、三人の患者さんと総婦長と外来診療室にいました。立っているとトランポリンの上にいるようでした。

「なにこれ?」と三回思いました。「やっぱり地震だ。こんなはずはない」。患者さんと一緒ではあわてるわけにはいかず、怖いけれど、落ち着いた振りをせざるを得ませんでした。
それから、入院患者さんを手分けして看に行き、ポケットのペンライトでとりあえず全員の無事は確認しました。しかし、ガスの匂いが濛々と立ち込め、一方では自家発電機が焦げ臭い。

患者さんの避難開始です。手当たり次第、ほとんどが担送の患者さんでした。白血球が少なく滅菌装置を使っている方もいました。普段乗れない方も無理やり車椅子に乗せ、毛布やシーツに乗せて患者さんを引っ張り、空いたマットを庭に並べ、そこへ引っ張り出した患者さんを並べていきました。ベッドにしがみついてなかなか動いてくれない方。
「お願いだから言うこと聞いてよ」私たちも死に物狂いでした。

構内の看護宿舎から心配して駆け付けてこられた家族の方々もみんな必死でした。いつの間にか陽が昇っており、結果的に火災はなく全員無事にほっとしました。それも束の間、いつの間にか、ガラスで切った、なにかにぶつかった、火傷した、などと、開けっ放しのあちこちの入り口から人々が血を流してやってきました。

いつもならもう来ているはずの医師がまだ誰も来ません。通りに一番面した作業療法室を仮の処置室と決めるまで、うろうろしながら馴れない外傷の処置をしました。どれ程の被災かもわからず、その頃はガーゼ、消毒綿などもふんだんに使っていました。

三時間以上歩いてきたと言う医師が到着。ふもとの町の悲惨な状況を聞き、やっとラジオの音も耳に入ってきました。完全に倒れたロッカーを起こし、一旦外に避難させた入院患者さんをもどしたりしました。

そのうちに、若い大学生の遺体が運ばれて来たときには絶句しました。私たちの病院は救急車の通り道からはずれ、火災もなかったため目を覆うような患者さんはそれほど多くはありませんでしたが、長い長い一日はいつまでも終わりませんでした。

それからの何日かは仮設外来、仮設病棟で診療しそこで仮眠を取りました。
まだ家族が土砂に埋まっていると、点滴をしながらラジオの死亡者発表に耳を傾ける男性。自分は助かったけれど、同じ下宿の友達が亡くなったと、土砂に埋もれてけがをした下半身の回復を待つ大学生。

余震ごとに拡がる亀裂、水も暖房も無い中で、高圧蒸気滅菌装置も壊れ、X線、コンピュータ断層撮影もだめ、血液センターに電話が通じなかった当日はぞっとしました。そういう状況下にやっと通じた電話で、遠くの病院の先生や、友人、業者さんなどから水、毛布、カイロ、医療材料など救援物資の申し出があり、思わずいろいろ頼んでしまいました。どれほど嬉しかったか表す言葉を知りません。

敷地の地割れや施設の亀裂などが明らかになっていく中、自宅が全壊、半壊にあった職員さえも、病院と患者さんを守るため働いてくれました。が、やはり入院患者さんをより安全な地域へ移転せざるを得ないと結論を出し、二週間目は転院業務でてんてこ舞いでした。

病院探しに協力してくださった方々、快く慌ただしい転院を受け入れてくださった病院の方々、ありがとうございました。そして有無を言わず転院してくださった患者さんたち、本当にごめんなさい。一人一人の患者さんを送り出す度に、味わったことのない寂しさが込み上げました。がらんとなった病棟の詰所で何も言わない看護婦さん達のミーティングがもたれていました。

この何日かに流れた涙はペットボトルにとっておくべきでした。被災者や惨状に向けた悲しみの涙、患者さんたちとの別れの涙、職員皆の頑張りに対する感謝の涙、そして心身共にしんどい時に流した涙をためたペットボトルを。

外来だけとなった今、病院は新たな復興に向けて動き始めました。地域住民のために、被災された方々のためにも、こんな時こそ病院としての使命を果たそうと、近隣の避難所の訪問を開始しました。福祉と医療、行政と住民、ボランティア活動と保険医療など、様々な疑問を感じながら日々忙しく地域医療復旧活動の一環をお手伝いしています

平成7年1月17日5時46分、淡路島北部の北緯34度36分、東経135度02分、深さ16kmを震源とするマグニチュード7.2の地震が発生しました。
この地震により、神戸と洲本で震度6を観測したほか、豊岡,彦根,京都で震度5、大阪、姫路、和歌山などで震度4を観測し、後に神戸市の一部の地域等においては震度7であることがわかりました。

【被害の概要】
1)人的被害の概要
この災害による人的被害は,死者6,432名(いわゆる関連死910名を含む),行方不明者3名,負傷者43,792名という戦後最悪の極めて深刻な被害をもたらしました。(自治省消防庁調べ,平成12年1月11日現在) 
2)施設関係等被害の概要
住家については,全壊が約10万5千棟,半壊が約14万4千棟にものぼりました。
交通関係については,港湾関係で埠頭の沈下等,鉄道関係で山陽新幹線の高架橋等の倒壊・落橋による不通を含むJR西日本等合計13社において不通,道路関係で地震発生直後,高速自動車国道,阪神高速道路等の27路線36区間について通行止めになるなどの被害が発生しました。  
ライフライン関係では,水道で約123万戸の断水,下水道で8処理場の処理能力に影響が生じ,工業用水道で最大時で289社の受水企業の断水,地震直後の約260万戸の停電,都市ガスは大阪ガス(株)管内で約86万戸の供給停止,加入電話は,交換設備の障害により約29万,家屋の倒壊,ケーブルの焼失等によって約19万3千件の障害が発生するなどの被害が生じました。 
公共土木施設関係では,直轄管理河川で4河川の堤防や護岸等に32箇所の被害,府県・市町村管理河川で堤防の沈下,亀裂等の被害,西宮市の仁川百合野町において地すべりにより34名の犠牲者が生じるなどの被害が発生しました。 
農林水産業関係の被害については,農地,ため池等の農業用施設など各施設において甚大な被害が発生しました。

(出典:国土庁「防災白書」平成7年版~平成10年版)

あれから7年が経過し上ヶ原病院の建物も復興しました。
私たちはこれからも地域医療の充実に取り組んでいきます。
最後になりますが、改めて亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

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